TAO Vol.9
女、女・・・
スチュアルに言われた言葉の意味を考え込む。
つまり、自分はあの妖艶で蠱惑的なものを相手に戦わなくてはいけないのだろうか。しかも負けるために。いや、何か見ただけですぐノックアウトしてしまいそうだが。
「・・・まさか、ねぇ」
そんなことない・・・と思う。あの王子でも流石に、とも言い切れないところが微妙に悲しいが、とりあえずどんな罠がきても直ぐに陥って負ければいいのだ。
直感でも罠だと分かったら、自ら飛び込めば万事事が恙無く進むだろう。
「失礼します」
よし、と軽く気合を入れた後にジェイドの部屋をノックする。
ダルそうな声で直ぐ返答がきたので今は女を連れ込んでいない。
今は女の罠は恐らくないと意気込んだ分がっかりしたものの、心の隅で安堵していた。
「ワイン」
「・・・ワイン、ですか」
束の間の安堵というものは、落胆を酷くさせる毒のようなものだ。
女の罠がないと思いきや、ジェイドは顔を突き合わせる早々に、ワインを言葉一つでイリアに要求してきた。ジェイドにとっては、イリアがどういう態度を取ろうとも世話役兼護衛であって、このように小間使いさせられる人間であるという認識は変わらない。どんなに警戒しようとも、この根本を絶たなくては意味が無く、寧ろこの落胆がずっと続くのだと、現実感をもって目の前に突きつけられたような気分になった。
気も足取りも重いが、とりあえずワインを厨房から貰らってきた。
先日のようにまた他の侍女に任せるという手もあったが、それではわざわざジェイドの周りから女を避けていた意味も無くなる上に、侍女を大切に扱うと決めた昨日で今日にまた頼むのも憚れた。肩は落ちたものの、ワインを持ってくるくらい誰でも出来ると自らが出向いたのだ。
ワインとグラスを持ってジェイドの部屋をノックする。
またいつものような気だるい声が聞こえてきて、ドアを開けた時に目に飛び込んできた風景に唖然としてしまった。
「ご苦労」
どの口がそのような事を言うのだろうか。
そんないつの間にか連れ込んできた女に口付けをしながら。
(い、いつの間に)
イリアがこの部屋から出ていたのはほんの数刻の間だ。そんな束の間にこの色情魔はちゃっかり女を連れ込んで、また色事にしけ込もうとしている。突然現れた女の存在に驚いて顔が引き攣り、ワインとグラスを持ったまま動けなくなってしまった。
「あら、あなた・・・」
振り返った女に見覚えがあった。
黒髪の女、以前イリアの頬にキスを落として帰っていった女だ。
「エリゼリーテ、どこに意識を持っていっている」
イリアの顔を見て笑った女、エリゼリーテがイリアへと意識を持っていったことを咎めながら、ジェイドはその白磁の首筋に唇を落として強く吸う。エリゼリーテもその愛撫にあられもない声を出して、またジェイドの方へと向き直り、やきもちか、と揶揄するようにお返しにとばかりにジェイドの額に口付けをした。恋人の睦言のような会話にまたイリアは赤面してしまう。2人がお似合いすぎて直視出来ない。
「王子!ワインをここに置いて・・・」
ワインをここに置いて失礼いたします、と扉を全速力で閉めて走って行きたかった。また何だかんだいって情事を見せられる。そう直感でその拷問から逃げようと言葉を発していた。
だが相手は上手だった。
「グラスに注いでこっちに持って来い」
イリアが言い切らないうちに脱出を封じたのだ。もっと近付いて来いと命令して。
ゴクリ、と息を呑む音が聞こえた。
ワインのコルクを掴む手が震えて何度か手が滑る。嫌なくらい緊張している。
やっとの思いで開けたワインのボトルから流れ落ちる赤い液体を見つめながらイリアはチラリと横目にジェイドを見た。エリゼリーテを膝の上に向かい合う形で抱き上げ、飽きずもまた口付けを繰り返している。
軽く啄ばむようにしては放し、そして戯れのように深く繋がる。そんな時にエリゼリーテの髪に絡ませるジェイドの指が酷く、イリアの劣情を刺激した。
胸が疼き、首の後ろがサワサワする。
どうしたというのだろう。こんな子供じみた戯れにこんなに動揺するなんて。一昨日や昨日などもっと凄い場面を見ているというのに、ただのキスでひどく心が揺れる。
ぎゅっとボトルを握り締め、視線を戻した。唇を強く噛み、煩わしいこの感覚を遣り過ごす。
2度と呼ばれることの無いようにグラス一杯にワインを注ぎ、ついでにボトルも持ってジェイドへと持って行った。
真正面から見るその姿。
そのキスを繰り返すだけのその姿が恋人同士のように見える。
裸で弄り合うのとは違う、その幼稚な触れ合いが恋人同士を連想させて、覗き見しているような感覚になり、ただ情事を見ている時よりも格段に気恥ずかしい。
あまり視界に入れないようにワインを運び、無言でジェイドに差し出す。
ジェイドが無言でこちらを見ている事は気配で何となく分かっていた。けれど今あの瞳を見る勇気はどこにも無い。
あの捕らえるような真っ直ぐな瞳。思い出すだけでゾクッとする。
(―――心臓に悪い)
今真っ直ぐに見据えたら、きっと止まってしまう。そのくらい強すぎて、底が見えない。
「あら、いやだ」
エリゼリーテの気の抜けた声で、途端緊張が途切れた。
はっとして顔を上げればエリゼリーテは困った顔で下を向き、ジェイドの視線もエリゼリーテへと向かっていた。
視線がそれてイリアは内心ほっとする。
「どうした?」
「髪飾りが・・・」
戸惑うようにエリゼリーテが言うので下を見ると、蝶を模った綺麗な髪飾りがジェイドの足元に落ちている。おそらくジェイドと戯れている最中に髪から滑り落ちてしまったのだろう。綺麗に纏められていたエリゼリーテの髪も、解れてうなじにかかった黒髪が腰まで落ちてゆらゆら揺れる。
「放っておけ。どうせまた取れる」
「ですけど・・・」
ジェイドに首筋を口づけられながらも髪飾りが気になるようで、下をチラチラ見ている。もしかしたらジェイドに踏まれることを危惧しているのかもしれない。
「あ、私が拾います」
エリゼリーテにそう告げると、エリゼリーテはほっとした顔をして「ありがとう」と微笑む。大人びた普段の顔とは違う、少女のような顔で微笑まれて何だかくすぐったい感じがして、イリアも微笑んで「いえ」としゃがみこんだ。
しゃがみこむ瞬間に視線の端にジ ェイドが笑むのが見えたが、イリアはその意味を深く考えもせずにそのまま足元に膝をついてしまった。
髪飾りに手を伸ばし、取ろうと思った時に耳元にぱしゃん、と水音が響く。
髪飾りまであと少しという距離でイリアは指先をピクっと跳ね上げ、そのまま動けなくなってしまった。
冷たさが頭の天辺から髪の毛、体のラインを伝わりするすると全身に広がっていく。ぽたりと髪の毛から滴り落ち、床に落ちて行ったのは赤い液体だった。
それが何かわかった瞬間、イリアはかぁっと顔が赤くなったのが自分でも分かった。歯をぐっと食い縛り、突いて出てきそうなこの罵倒をぐっと飲み込み、伸ばした手を握り締めた。
「すまない。手が滑った」
顔を上げると空になったワイングラスを片手に、ジェイドが事も無げに言う 。あくまで偶然だ、と口には出すがその表情はそうではない。悪かったなどひとつも思ってはいない。
ここでジェイドを罵倒し、ついでに侮辱だと殴ってやれば多分クビになれる。
けれどイリアの中ではそれを良しと出来ない強い矜持が、ここになって出てきてしまった。
(これが、罠)
こんな幼稚な罠、馬鹿すぎる。
我慢のない人間なら憤慨していたかもしれない。特に下級貴族出の兵士などは無駄にプライドが高く、相手が自分より身分が上の貴族であろうとも、馬鹿にされたのであれば黙ってはいられないのが多い。こうやって今までもこの男は人を馬鹿にし、追い払っていたのだろう。
でも、イリアにはそんな傲慢なプライドなどはとうの昔に捨ててしまっているし、むしろこんな事でクビになったなんて、思われる方が不快だ。
自ら罠に飛び込むとは言ったものの、イリアの品格を疑われるようなそんな退場は望んではいない。
ここは我慢強く堪えるべきだ。
「いえ、お気になさらず」
怒りをよく殺せたと自分でも思う。冷静に返せたことを褒めてあげたい。
再び顔を俯け、髪飾りに伸ばした手が震えていた。
「これを」
エリゼリ ーテに髪飾りを差し出した時に、エリゼリーテは酷く苦しそうな顔をしていた。
「ありがとう」
そう言った後に小さく「ごめんなさい」と呟き、髪飾りを受け取る。
エリゼリーテが悪いわけではない。
それなのに、本人そっちのけでそんな顔をされてしまっては、同情されているみたいで気分が悪かった。
「王子、すみませんが着替えてきます」
気分が悪い。この状況のせいかワインの匂いのせいか。どちらにせよここには居たくなかった。ここにいたら押し込んだ怒りが体中で暴れておかしくなるような気がして、どこか発散できるところに逃げ出したかったのだ。
「ああ、そうしてこい。そうだ、お詫びと言ってはなんだがここの風呂を使うがいい」
お詫び、という言葉に笑いそうになった。
「いえ、大丈夫です」
もちろん断る。
「遠慮するな」
「兵士用の浴場がありますので」
「そこは今清掃の時間じゃないか?」
「え?」
ナイトテーブルに置かれた時計を見ると、確かにちょうど今清掃の時間だった。タイミングが悪いというか運がないと言うか。
顔を顰めて溜息を吐くと、またジェイドがこちらを見ていた。
不覚にもその視線と合ってしまったイリアはまたあの深い瞳に捕えられる。
言い訳は尽き、動けなくなった。