TAO Vol.10



 はぁ、と疲れが息となって出る。

 鏡を見ればそこに赤く衣装を濡らして、情けない顔をしている自分がそこにいて、嫌になった。二度と呼ばれないようにグラスいっぱいにワインを注いだことが裏目に出てしまい、予想以上に多量のワインが自分に注がれてしまっていた事に、今更ながらに気付いて怒りがぶり返す。

「ちくしょう」

 はしたなくも出てしまった言葉にはいろんな意味が含まれていた。
 今の姿のこととか、ワインをかけられたこととか、エリゼリーテのあの同情の目、ジェイドの深い眼、そして結局ジェイドに負けてジェイドの部屋の浴場を使うことになってしまったこととか。
 濡れてしまった服を指先で摘まんで再び「ちくしょう」と呟き、勢いよくワインの匂いが染みつく服を脱ぎ捨てた 。


「無駄に広い・・・」

 ぽつりと呟いた声でも響くほどに広く、何十人も使う兵士用の浴場よりも広いような気がする。
 たった一人のためにここまで広くしなくても・・・
 無駄に広く、無駄に豪華。『無駄』という言葉が似合う浴場だった。
 大理石で造られ丸く模られた浴槽には常にジェイドが入れるように白乳色のお湯が張り、ワインとは違う心地よいいい香りがする赤い花びらが浮かんでいる。
 何故いつでも入れるようになっているかなど考えるまでもない。なにせあの王子様は、常日頃から肉体運動をなされているので、汗をかくことが多いのだろう。浴槽に付け加えられた女神像が持つ甕から流れ落ちる白乳色のお湯が、いつでもよい入浴環境を与えてくださっている。

「ぷはっ」

 べっとりとねとつく髪の毛のワインと体を洗い落とし、最後に頭からお湯をかけた。
 あの不快感はおかげさまですっかりとなくなって、逆にこんないいお風呂に入ることが出来ていい気分になる。
 心地が良かった。
 ワインによって冷やされた体が温かいお湯によって癒されていく。疲れも癒されるようなそんな感覚でお風呂を純粋に楽しみ、うぅ〜、と伸びをして浴槽の淵に腕を乗せ、その上に顔を置いた。

 目を閉じる。

 このままゆっくりしていこう。どうせ今出て行ってもジェイドとエリゼリーテの情事に出くわして、また気まずい気持ちになるだけだ。

(まったく・・・飽きもせずこう毎日毎日と)

 人間としてその欲求があるというのは理解できるし、仕方のないことだとある程度は思えるが、ここまでくると理解の範疇を超えて呆れてしまう。そしてそれを人に見せようとするのだから趣味が悪い。
 別にいいのだ、女を連れ込もうと。が、それに他人を巻き込んで楽しむのはいかがなものか。
 もしそういうのが趣味だったのなら・・・

「・・・ほんと、最低な変態だな」

 ポツリと漏らすように口から出た。
 だったらあの卑劣な罠も趣味の一環だろうか。人をいびってそれを楽しむ、そうだったのなら外道もいいところだ。
 人を除けて女を連れ込む。
 女と事にしけこみたいだけならここまですることはないのだろうが、もしかすると、とイリアは思う。

(干渉、されたくない?)

 それだけなのかもしれない。
 見たところ勝手気ままな感じだし、あれこれ指図されるのも嫌いそうだ。気位が高い王族なのだから、そうなってしまうのは致し方のないことかもしれないが、いづれは国の頂点に立つ身の上、そうそう我がままではいけないのではないだろうか。
 それが王になる。
 そう考えると先行きは望めないかもしれない。だが、それを憂いてジェイドを矯正をすると意気込む崇高な思慮も持ちえてはいない。とにかく自分の身に降りかかる火の粉を振り払う、それが当面の目的なのだから。
 先ほどは妙なプライドが邪魔をして失敗してしまったが、罠に引っ掛かれば目的は果たされ、晴れて自由の身になる。そしてマイアに笑顔で次の着任地を聞いてやるのだ。

(よし!未来が見えてきた!)

 勝算はこちらにある。

 そう光が見え始めた時だった。

 カタ。

 浴場に音が響き渡る。

(え?)

 驚いて身体を起き上がらせ、お湯に深く入り込む。

 カタ。

 また音がした。

 ―――誰か、入ってきた

 体が固くなって息が自然と浅くなる。
 何度も何度も音がしてそこに確かに人がいることをイリアに緊張感を持って伝えてくきた。
 鼓動が酷く速い。

 ―――どうしよう

 ヒタ。

 今度は音が足音に替わって近付いてきた。

「失礼しますわ」
「エリゼリーテ!?」

 イリアはお湯の中で跳ね上がる。
 湯気に包まれて現れたエリゼリーテが、近づくたびにイリアは広い浴槽の中を一歩ずつ後退していった。
 エリゼリーテの姿がはっきりと現われ、ゆっくりと浴槽に足を入れた時、イリアはぎょっとした。

「エ、エリゼリーテっ?!」

 声が裏返って慌てて目を逸らした。

「なん、何で、裸なんだ!」
「あら、お風呂には裸で入るものでしょう?」

 それはそうだが、何故わざわざ他人が入っているとわかっていながらも入ってきたのか、しかも裸で!声にならない声であたふたとし、それでも近づくエリゼリーテに「近寄るな」と叫ぶ。
 白乳色のお湯の色とほぼ変わらないエリゼリーテの目を張るほどの美しい肢体。お湯に広がるエリゼリ ーテの長い黒髪。女の象徴である乳房。情事が終わった後だからか、それともこの湯気のせいか汗ばんでしっとりと濡れるその体の一部一部が、言いようのないほど美しく、妖しいほどに艶やかに見せる。
 こんなものに突然近づいてこられたら誰だって動揺するに違いない。

「つれない事、おっしゃらないで」

 声までが濡れている。
 そんなフェロモンの兵器が何だってこんなところに。

「貴方だって感じたでしょう?」
「え?」

 すぐ近くにエリゼリーテの声が聞こえ、顔を上げればエリゼリーテは手の届く位置にまでやってきていた。
 うひゃ、とイリアは後ろに飛び退く。

「私と王子の濡れ場を見て、欲情されていたのでしょう?」
 ブンブン、と勢いよく横に首を振った。
 声を出そうにも あまりの事に声が出ない。

「我慢、なさらなくてもいいのですよ?」

 潤んだ瞳で見つめられ、そっと腕に手をかけられ、

「いいんですよ?」

 腕にかけられた手がするりとイリアの手のひらに滑り、そのまま手を掴まれた。

「・・・触っても」

 そして掴まれた手をエリゼリーテのその豊満な胸に押し当てられる。
 柔らかな感覚がして、イリアの混乱は絶頂を極めた。

(む、胸!やわらかっ!さ、触って!え、エリゼリーテが!)

 混乱するイリアを見てエリゼリーテは笑み、そっと耳元で囁く。

「・・・王子には内緒にしますから」

 魔性だ。魔性の女がここにいる。
 男を誘い込み、陥落させる女がここに、自分の目の前で微笑んでいる。なぜだか目の前に浮かんできたのは『堕落 』という言葉だった。

「ね?私を好きに・・・」

 そう言ってエリゼリーテがイリアの胸に手を当てる。

 はっと気付いた時にはもう遅かった。

 エリゼリーテが硬直して自分が触れたイリアの部分を凝視している。

(まずいっ!)

 エリゼリーテの手を振り払った時には彼女は理解してしまったのだろう。
 あなた、と呟き、数刻置いてあなた、とまた繰り返す。


「女、なの?」




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