TAO Vol.11



 あまり家は裕福ではなかった。
 貴族の端くれではあったが代々から受け継ぐ領地は、先代が困窮の末に切り売りし、残ったのは痩せた土地とほんの僅かな領民のみで、領地から上がってくる収入など微々たるものだった。
 生活が苦しく、貴族としての暮らしなど出来る筈もない。
 ところが、両親はそれを十分に理解できていなかったのだと思う。
 自分は代々から続く貴族だというプライドばかりが先行して、虚栄心ばかりで物事を考えることが多く、無理にでも裕福な生活をしようとしていた。
 あそこの家ではメレバの宝石の首飾りを買ったらしい。
 今上流社会ではあれが流行っている。
 そんな噂ばかりを気にしてならば我が家も、と金を考えなしに使い込んだ。

 家の実情というものから目を逸らして目先の欲望に意識が行ってしまうそんな家族がイリアは嫌だった。

 ある日、父は言った。
 家が苦しい、兵士になって稼いで来い、と。
 イリアに向けた言葉ではなく兄に向けた言葉であった。
 父の言葉は当然のものだ。
 苦しければ稼いでくるしかない。
 そして貴族で上手く稼ぐには、文官になるか軍属になるのが従来の筋であるが、残念ながら兄には文官になるほどの才能とコネに恵まれてはいなかった。文官への初期試験でさえ通ることが出来なかったのだ。
 それに酷く落胆して稼ぐわけでもなく、ただ無意味に過ごしていた兄をせっつこうとした父は、頭がダメなら体で、と考えたのだろう。
 軍であるのなら慢性な人手不足なので、試験は剣をある程度振れるだけで十分合格できる。しかも実力主義であるために実力さえあればいくらでも上に上り詰めることが出来るのだ。
 家を潤すためには必然だった。

 だが、兄は否と答えた。
 自分には無理だ、そんな恐ろしいことができる筈がない。文官しか出来ないのだ。
 軍に入るなら妹がいい。妹の方が剣を振るえる。

 そうだ、そうしよう。



 □□□



 ぴちゃん。
 髪から雫が流れ落ちる。
 幾度も幾度も流れおち、その間もエリゼリーテもイリアも動けずにじっと見つめることしかしなかった。

 イリアはすっと冷静になった。
 先ほどと打って変って冷える自分の頭があれこれと考える。

 ―――女ということが、バレた

 だが、それを慌てるだけではどうにもならない。

「・・・エリゼリーテ」

 く強張った、冷たい声が出た。それにエリゼリーテも肩を跳ね上がらせる。

「申し訳ありませんが、他言無用ということでお願いしたいのですが」

 何も言わせないと思った。余計な言葉をエリゼリーテに不用意に許してしまったらどこまでも泥沼に嵌っていくような気がして、口を開かれることを恐れた。

「お約束いただけますか?」

 ほしい言葉はただ一つだ。

「お約束いただけますね」

 今度は疑問ではなく確定の意味でエリゼリーテに強く肯定の言葉を求める。
 他の言葉はいらない。
 「はい」の一言で、ただそれだけでいいのだ。

 だが、エリゼリーテは沈黙した。何を言うでもなくただイリアを見つめ、何かを図るような顔でじっとイリアの顔を見る。
 イリアもエリゼリーテの目を真っ直ぐに見ていた。逸らしてはいけない、本能的にそれを体で感じていたのかもしれない。

 音はどちらからも出なかった。女神像の甕から出る水音が二人の長い時間を計るかのように滔々と流れるのみで、緊張感のある静寂が包みこんだ。
 じっと待つのは辛い。そしてその間は考えを暗い方向へと導いてしまう。イリアが何時までも何も言わない エリゼリーテを見つめていることに限界を感じた時に、エリゼリーテはこれまで以上に華やかに微笑んだ。

「理由をお教えいただけるとお約束頂けるのでしたら、私もお約束いたしましょう」
「何のために理由を知りたいのですか?」
「好奇心ですわ、ただの」

 その真意を測りかねるようにただ微笑む。本当にただの好奇心なのかはどうかは分からないが、偶然知ってしまってはその理由を知りたくなるのも人間の性だと思えば、好奇心だと言ったエリゼリーテの言葉も致し方ないことなのだろうか。

「後日、必ず」
「ええ、明日にでも」

 う、っとイリアは言葉を詰まらせる。どうしてもエリゼリーテはその理由を知りたいのだろう。明日とはまた性急な、と半ば呆れて仕方なくひとつ頷いた。明日はどうにか時間を作るしかない。

「約束です、お互いに」
「ええ、お互いに」

 エリゼリーテのその強い肯定に、イリアは肩の力を抜いてそのままお湯に顎まで浸かる。随分とのぼせてしまったがほっと一息ついてこのお湯の揺らめきに自分の体をそのまま預けてしまいたかった。エリゼリーテも浴槽の中でずっと立ったままだったが、イリアが深くまで浸かったのを見てクスリと笑い一緒に座り込む。

「驚いてしまいましたわ」

 エリゼリーテがぽつりと溢す様に言う。

「こちらこそ。何だって風呂なんかに・・・」
「もちろん貴方を嵌める為ですわよ」

 しらっとエリゼリーテは、しかも笑いながら聞き逃せない言葉を言った。
 誰を嵌めるだって?詰問するような言葉が喉まで出かかる 。

「王子のお遊びに私も乗っかってあげてるんですの。こうやって兵士を誘惑して私に手を出してきたら、王子はそのことを咎めクビにする。偶にこちらから誘わなくても襲ってくる不逞な男もいますけどね。だからいつものように貴方を誘惑しに行ったんですけど・・・」

 そこまで言って、イリアの顔を見て意地悪そうに笑う。

「こちらの方が罠にかけられた気分ですわ」

 それは楽しそうに、事も無げに。
 その表情にイリアは眉を顰める。理解出来ないとも思った。

「厭ではないのですか?」
「え?」
「そうやって王子に利用されることです。王子の遊びに利用されて男を誘惑して・・・。女を馬鹿にしているとか、思わないんですか?」

 自分だったら厭だ。
 地位も金もある貴族の男を誘惑して、結婚しろ。兄に活路を見出せなかった時、否、そうでなくとも父はイリアにそう言っていた筈だ。己の欲のために。
 そういう時、女である自分がたまらなく嫌だった。
 家の道具、政治の道具という風習が強く根付くこの貴族社会では女性はあまりにも弱者だ。
 だから兄の言葉にこれまでにないほどに反発した。兄の甘えに憤り、心ない言葉に激昂し、何故、と何度も繰り返した。
 女というだけでイリアは望んでも文官にも軍属にもなれなかった。女というだけで鼻で笑われ、そういうことを考えること自体はしたないのだと叱られたこともある。こんなにも世の中は不公平だと嘆いたのは両手だけでは足りず、兄を羨ましいと仄暗い気持ちで見ていた。

「言ったでしょう?王子の遊びに乗っかっているんだと。私が好きでやっているんですの」
「・・・けど」
「それにこれは試験でもありますのよ?」
「試験?」

 この茶番が試験?
 首をひねるイリアを余所に、エリゼリーテはさも楽しそうに続ける。

「ええ。第一関門は王子の情事の場面を見て逃げ出さないかどうか。『そこにいろ』と命令をして、それで逃げ出してしまったら命令違反としてクビになります」

 試験、というのは自分たちで言う『王子の卑劣な罠』のことだろうとイリアは推測する 。そんな試験なんていうかわいいものではないと思うのだが、とその自分の受けた第一関門を思い出してまた赤面してしまった。
 なるほど、あれは潔癖な人間には耐えられないだろう。それにしてもそこから罠を張り巡らせていたなんて、なんて男だ。

「それに合格すると第二関門が私、ということになるんです。こうやって2人きりの状況を作って誘惑する。その誘惑に負けた者は王子の許可なく女に触れたということでクビになるんですの。だいたい皆様ここで脱落してしまうんですけど」

 これを突破できた方は誰一人いません、と自慢げに言う。

 スチュアルの言っていた『女に注意』というのはこれのことだろう。まずは自分の情事を見せて煽るだけ煽り、そしてこの第二関門で一気に止めに入る。 第一関門ですでに下準備を済ませているところが狡猾でズルく、そしてまさに卑劣。人間の欲望を上手く利用した巧みな罠と言える。

「何てこと・・・」

 賢いと言えば賢いのだろうが、何故それを悪知恵にしか活用できないのか。
 ああ、とイリアは額に手を当てて項垂れた。

「本当に、とんでもないことですわよね。・・・ですけど」
「しっ!」

 イリアが突然険しい顔をしてエリゼリーテの言葉を遮った。静かに、と小声で彼女に告げると警戒を剥き出しにした顔で強く入口を睨める。エリゼリーテも入口を見つめ、はっとした。

 カタン。
 音が、する。

(誰かいる)

 また誰かが入ってきた。
 エリゼリーテを見るとエリゼリーテは首を横に振った。エリゼリーテにも知りえぬ侵入者だと知って、イリアはさらに警戒を強めた。
 けれど、何となくその侵入者の正体をイリアは分かっていた。

 息を殺してそれをヤバイと思いながら待つ。
 その強い漆黒の瞳。

「楽しそうだな」

 ―――ジェイドだ




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