TAO Vol.12



 ガウンを着たジェイドが浴場の入り口の壁に腕をつきながらこちらを楽しそうに窺っていた。
 イリアはその推測通りの登場に身を固くする。先ほどより深くお湯に身を沈めて己の体を隠した。

「ジェイド」

 エリゼリーテがジェイドの名を呼ぶ。それにジェイドが目配せで応えただけで、何を言うわけでもなくエリゼリーテを見つめ、目をすぅっと細くした。
 エリゼリーテが隣で息を呑むのが分かった。
 顔が強張り、じっとジェイドの顔を凝視して動かない。この2人の中で無言の応酬が繰り広げられている。だが、イリアはその内容を読み取れずに、ジェイドとエリゼリーテの視線を追うことをただ繰り返した。
 何だ、この2人に流れる空気の意味は。
 そればかりを2人の顔を窺いながらイリアはその意味について考えた。

「エリゼリーテ」
「待っていられなかったの?ジェイド。仕方のない子ね」

 沈黙の中、ジェイドがその沈黙を破ったと同時にエリゼリーテもそれを遮るように苦笑しながらジェイドのことを嗜めた。まるで、その先を言わせたくないかのように。

「あれだけ激しくしたのに・・・、足りなかったのかしら?」

 エリゼリーテが浴槽から立ち上がり、イリアの周辺で小さな津波が起こる。その波の揺れで体が露わにならぬよう、慌ててその身を腕と湯で隠し、浴槽から立ち去っていくエリゼリーテの後姿を呆然と眺めた。隠すこともなく惜しみなく開けだされるその美しい肢体の持ち主は、真っ直ぐジェイドの元へと向かっていく。

「我慢の足りない男(ひと)。でもそういうがっつくのも偶には悪くないわ」

 揶揄するようにゆっくりと近づいたエリゼリーテは、ジェイドに撓りかかりながらジェイドのその頬に指をするりと滑らせる。
 その仕種にジェイドもまた妖しく笑みながら、エリゼリーテのその細い腰に腕を回した。

 イリアはその様子を見ながら、どうも置いてきぼりになっている。
 会話の内容も際どければその仕種も際どい。
 その流れからしてもしかしてこのままここで雪崩れ込む・・・なんてことがありえるかもしれない。
 いや、ある。あの色狂い王子なら場所と一目など気にはしない、とハッとして

(お願いだからここでハジメないでくださいっ)

 と、必死で心の中で祈った。

「行きましょう」

 エリゼリーテはジェイドの腕に自分の腕を絡ませ、浴場の入り口の方へとゆっくりと引っ張り、ジェイドはそれに連れられながら足を徐に動かし始めた。
 楽しそうに2人、見つめあいながら浴場を出て行こうとする途中、エリゼリーテはそっとこちらを振り返り、イリアに向かって意味深な笑みを浮かべた。

(あ、そうか)

 そのエリゼリーテの行動の意味をやっと理解し、その笑みに静かに頷いた。
 エリゼリーテはこの状況に気を遣って、ジェイドを浴場から出そうとしてくれているのだろう。裸のままのイリアでは、いつジェイドに女であることがバレるかわからない。イリアもそれを過剰に警戒し、過敏なまでにジェイドの一挙一動に注目して湯の中でじっと身を潜めていた。
 女であることを黙っていてくれると言ってくれたエリゼリーテのその行動に信頼がイリアの内に生まれ、嬉しくなる。

(あとでお礼言わなきゃ)
 エリゼリーテの機転のお陰で助かったのだから。
 
 心の中で何度もエリゼリーテにお礼を述べながら、2人の後姿を見送っていると、途中ジェイドがエリゼリーテの耳元で何かを囁く。それにエリゼリーテはだんだんと顔を顰め、ジェイドをまるで睨むかのような視線を彼に送り何かを言い返していた。

(・・・何?)

 ほっとしたのも束の間、ジェイドとエリゼリーテの2人の間に、不穏な空気が流れていることに首を傾げる。
 言い返すエリゼリーテにジェイドはしれっとした顔をしてまた耳元で囁き、エリゼリーテはそれを聞いたのちにきつく唇を噛み、俯いてしまった。
 エリゼリーテがこちらを唇を噛み締めたままそっと見つめる。

『ごめんなさい』

 とエリゼリーテが口の形をそう動かしたことによっ て一度は終息しかけていた警戒心を再び呼び戻す。
 何かがある。
 エリゼリーテが一人で入口へと向かい、代わりにジェイドがこちらに向かって歩を進めてくるのがその証拠だ。エリゼリーテの引き止めも効かぬほどの事が起こっている。

 ヒタ。
 ジェイドの足音が一つ一つ増えて行くたびにイリアの鼓動も早まる。

 エリゼリーテの姿はもうなく、縋れる人間も居なくなってしまった。

 ああ、そうだ。すっかり失念してしまっていた。

 湯につかっていても、冷たい汗がじんわりと流れ出る。
 逃げなくてはいけない、と思うがこの状況でどう逃げればいいのだと焦るばかりで良策など浮かぶはずもなかった。

 これは、罠だ。
 やっと2人の視線の本当の意味を理解できた。

「悪いな。楽しんでいるところに水を差して」

 浴槽の縁にしゃがみ込み、こちらを窺うジェイドの不敵な笑みにゾクっとする。
 にやにやと締まりのないその顔に似つかわしくない、瞳に宿る剣呑な光。漆黒のそれに潜むものを真正面から見て、イリアは息を呑み込む。

「どうだった?アドネイル」
「え?」
「エリゼリーテとは、楽しめたのか?十分に」

 これは罠の延長だ。
 すっかりネタをエリゼリーテからばらされて気を許してしまっていたが、この第二関門が終わった気がしていたのはイリアだけで、ジェイドにとってはこれからが本当の試験。
 つまり、ここでジェイドはイリアがエリゼリーテに手を出したかどうかを審議しようとしているのだ。
 ここで、肯定すれば晴れてこの馬鹿らしい業務からは解放される。だが、イリアはジェイドの言葉を肯定するのを躊躇っていた。
 状況が悪すぎる。
 ジェイドの警護兼世話役をクビになるには十分なほどの状況だが、何かの拍子で女であるということがばれてしまえば兵を辞めさせられる状況でも十分あり得るのだ。
 その事がイリアを躊躇わせ、ジェイドの罠に飛び込む勢いを削いでいた。

「王子、仰っている事の意味が分かりませんが」

 笑顔でジェイドの問いをかわす。
 やはりこんな状況下で飛び込めるほどの無鉄砲さは今のイリアは持ち合わせていなかった。事が事なだけに慎重に持っていきたいと、優先順位がおのずと自分の中で出来てくる。

「エリゼリーテとお楽しみだったのは王子の方では?」
「それに触発されてもおかしくない」
「ありえません」
「アレに迫られてか?欲情しなかったと?」
「私にも理性があります」
「ほぅ・・・」

 そう軽く唸って、目を細めたままジェイドは沈黙した。
 睨みつけるイリアを見ながら、何かを探る様にただ視線で舐め回す。
 それを不快に感じながら身じろぐと、一瞬視界がぶれた。
 くらっと眩暈を起こすような感覚に囚われ、ジェイドの不躾な視線に眩暈を起こしたのかと思ったのだが、それが段々と断続的なものになってくると、それは湯あたりからくる信号なのだと気が付いた。
 思ってみれば、エリゼリーテが来てからずっとお湯に浸かりっ放しだったのだ。逆上せて身体に変調をきたしていてもおかしくはなかった。
 視界が歪み、意識が遠のき始めている。
 身体が火照り、熱い。
 熱い、溶ける。
 けれど、ここで気を失ったら終わりだ。やっと掴んだものを失ってしまう。
 只管その思いだけで、イリアは意識を保っていた。
 目の前にいるジェイドに、こんな色狂いに自分の人生を奪われて堪るものかと。

「・・・ならその理性、確かめさせてもらおうか」

 ふいにジェイドが鼻で笑う。

「王子?」

 焦点が定まらない視界で、ジェイドの顔を見ようと思ったが上手くいかない。
 意地悪く笑っているのはわかる。でもその真意が、歪む視界では見ることが出来ずに、イリアは湯の中でぎゅっと手を握り締めた。

「お前のその下半身がはしたなく反応しなかったか、確かめてやろう」

(か、 はん、しん・・・)

 覚束無い頭の中で、ジェイドの言葉を数度反芻する。
 どういう意味だ、と訝しんだ瞬間、答えが舞い降りたかのようにその言葉の意味を捉える事が出来て、一気に体の血の気が引いた。

「お、王子っ」

 再びジェイドを仰ぎ見た時には、もうその手は行動に移していた。
 その手にしっかり握られているもの。
 鈍く光る細い鎖。
 それを軽く玩ぶように数回引っ張り、最後に思い切り引き抜く。
 ゴブッという音が鳴り、その後には水が引きづり込まれるような音がした。
 引き抜かれた浴槽の排水栓を、自分の顔の前で揺らしながらジェイドは見せびらかす。
 楽しそうに、優越に濡れたその顔で。

 確認。
 そんな事務的なものではない。
 ジェイドは確証を得て、確実にイリアをクビにしようとしているのだ。
 そのためにはどんな手をも使う。例えそれが下劣で、卑劣なものだとしても。
 お湯を全て流し、イリアの身体が露わになったところでそれ見たことかと笑うのだろう。エリゼリーテの魅惑に負けてはしたなく反応してしまった下肢を見て。
 残念ながらジェイドのその期待に応えることはイリアには出来ない。もちろん女なのだから。
 けれども、それ以上のクビに出来る理由をこのままでは与えてしまう。
 わざわざジェイドが罠を仕掛けるまでもない、兵を辞めるには十分な理由を。

 焦った。けれでも、どうしようもない。
 怒りが込み上げ、悔しさで涙が出そうになる。

 こんな処で!
 こんな男のせいで!
 こんなこんなこんな!!

 俯き、徐々に減りつつある白乳色のお湯を見ながらイリアは唇を噛んだ。
 じわじわと露わになる己の身体を確認しながら、それに合わせてまた残り湯に身を沈め、その場凌ぎをやってみせるがあくまでその場凌ぎだ。
 浴槽自体は広いからそうそう全てのお湯がすぐに流れ去るわけでもないが、それも時間の問題。
 お湯が流れる音を聞きながら、イリアは自分の人生もそのまま流れて行ってしまうと、絶望した。

(あぁ、もう・・・)

 お湯がイリアの鎖骨を通り過ぎた所で、イリアは顔を背け、目を静かに閉じた。



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