TAO Vol.13
「だめよ、ジェイド」
絶望から救ってくれたのは、エリゼリーテだった。
イリアが目を閉じていた時にはもう浴場に来ていたのだろう。声に目を開けると、エリゼリーテがジェイドの目を後ろから手で塞ぎ、言葉で諫めていた。
ジェイドも不意を突かれたのだろう、あっさりと手に持っていた排水栓をエリゼリーテに奪われ、そっとエリゼリーテは排水栓を排水溝に戻した。
お湯が流れを止め、引いていったはずの湯もその動きを止める。
はっと息を詰め、今起こったその奇跡にイリアは体中を震わせた。
女神像から流れてくるお湯のおかげで、再び元の量に戻ろうとする浴槽の湯が自分の身体を隠し、危機を脱したことを俄かに実感してきた。
先ほどの危機の残滓がまだ残っているのか、緊張からか上手く息が出来なくて、途切れ途切れに息を吐き出す。
震えが止まらなかった。
悔しさからではない、安堵からの涙が今度は出そうになる。
「部屋に戻っていろと言ったはずだが?」
「戻ってくるなとは言ってなかったでしょう?」
エリゼリーテがジェイドから手を離すと、ジェイドは邪魔された不愉快さを主張するように、エリゼリーテの右手の手首を強く掴んだ。
「絆されたか?」
「彼は私に手を出してはいないわ。私の誘いをきっぱりと断っていた」
「それを今、確かめようとしている」
「十分よ、もう」
先ほどとは打って変わってエリゼリーテは強硬な態度で、一歩も引こうとしない。
声が硬く、低い。
ジェイド相手に威嚇をし、その場を収めてくれているのだろうと、お湯で頭が煮え滾ったイリアにもそれがわかった。
例え一国の王子を 相手にしても、冷静に宥めているところが何ともエリゼリーテらしいが。
そんなエリゼリーテがふっと笑いその張りつめた空気を唐突にぶち壊した。
「こんなにゆっくりと確かめていたら、その間に萎えてしまってよ?」
クスクス艶やかに笑みながら、その顔に似つかわしくない言葉を発したエリゼリーテに虚を突かれてしまったのは、イリアだけではなかったらしい。
「・・・くっ」
思わず噴き出してしまったジェイドが、右手で顔を隠して苦笑していた。
「確かに。アドネイルはのぼせているようだし、お前の言うとおりアソコも萎えているかもな」
半分笑いながら小馬鹿にしたような物言いでイリアを見下ろしたあと、ジェイドはそのまま立ちあがった。
「エリゼリーテの配慮に感謝するんだな」
そう言い残すと、ジェイドは興がそがれたような様子でエリゼリーテの元へと去っていく。
エリゼリーテの腰に手を回し、また耳元で睦言でも囁いているのだろう。
二人はお互いに笑い合い、このまま情事に雪崩れ込みそうな雰囲気の乳繰り合いをしながら、浴室を出て行った。
またあの部屋ではじめるつもりなのだろうか。
ジェイドの、ついでにエリゼリーテのその性欲旺盛な様に感心してしまうような、呆れてしまうような。
何はともあれ、イリアは絶体絶命の危機を今度こそ本当にエリゼリーテのおかげで回避出来たようだ。
ふぅ、と安堵の息をつき強張っていた身体の力を抜こうと思ったが、多分そのまま気を失ってお湯の中に沈んでしまうような気がする。
思った以上に湯あたりはイリアの脳を沸騰させ、体力を奪っているらしい。
早くここから出た方が自分のためだ。気はまだ抜けない。
いつジェイドの気が変わって、また舞い戻ってくるか分からないのだから。
白乳色のお湯から出た時に、強い眩暈が襲ってきたが、すぐそばにあった女神像に手をついて何とか体勢を保った。
なかなか思うように動かない身体に、舌打ちをしたくなる。
脱衣所までの距離は、この覚束ない足では遠かったが、もたつくことは出来なかったし、イリア自身にもそんな余裕はない。
早く脱衣所で着替えて、この女の身体を隠して安心を得たかった。それに水を飲んで横になりたい。
ようやく脱衣所に辿り着いて、素早くバスタオルをその身に巻きつけた。
身体を適当に拭いて服を見にまとい、その前に胸を隠すためのサラシも忘れない。
胸を出してサラシを手に取った時に、ハタと鏡に映った自分の身体に目が行った。
自分の胸にある女である証、乳房。
普段はサラシで潰しているが、それでも成長期を過ぎたそれは、必要性がないのにも大きくなってくれている。
サラシを外してしまえば、イリアが女だということはすぐに分かってしまうほどに。
(・・・危なかった)
男と偽って何度も暴露(ばれ)てしまいそうな時はあったが、今回ほど絶望したのは初めてだ。
一昨日会ったばかりのジェイドに、これほどまでに追い詰められてしまうとは・・・。
色狂い、情事に溺れた愚かな男。
そう世間ではジェイドを評価していた。
イリアも、ぱっと見間違いではないその言葉に、ついついジェイドを軽んじて見ていた部分もあったかもしれない。
むしろ、女に溺れたり嫌がらせをしたり幼稚なことをしている、世間知らずの浮世離れした阿呆かとさえも思っていた。
(・・・けれど、それは違う)
いつだってジェイドは、貶めるチャンスを虎視眈々と狙っている。
獲物が隙を見せたら、背後から忍び寄り牙を剥いてこの身体に食らいつく、獣のような獰猛さや狡猾さを内に秘めた、恐ろしい男だ。
しかも、一思いに殺すなんて優しいことはしないだろう。
嬲り殺す。
あの性格からして、きっとこういうのが好みのはずた。
罠に自らかかってクビになると、つい啖呵を切ったが、これは早めに実行に移した方がよさそうだと、自分の楽観視していた部分を戒めた。
イリアは、ジェイドの獰猛な歯牙にかかってしまったら、きっと兵士としてここにはいれなくなってしまうだろうから。