TAO Vol.14



 早くここから立ち去りたくて掴んだ自分の服を見て、溜息がついつい出てしまった。
 さっきまで着ていた軍服の上着は、ジェイドの所業のお陰で、赤いワインの染みがべっとりとくっつき、手に取るだけで匂いがイリアの鼻を刺激する。
 これはちゃんと落ちるのだろうか。
 シミ抜きなどやったことがないのだから、よくよくは分からないが後で侍女に聞いてみるしかない。
 折角の一張羅。こんな事で廃棄したくはなかった。

 取り敢えず、サラシの上からシャツだけ着て後は自分の部屋で着替えることにした。もたもたしていたら次にどんな試練が降りかかってくるかわからない。
 もしかすると、脱衣所の扉を開ければ、ジェイドとエリゼリーテのあられもない姿が目に飛び込んでくるかもしれないが、前の様に目を瞑って我慢しよう。
 まずは着替えが最優先だし、何より身体が水を欲している。
 このままだと脱水症状を起こしかねないから、恥を忍んででもここから出て行かなければ。
 頭の中で、ジェイドとエリゼリーテの痴態から目を背けながら、無事に部屋を出るシュミレーションを何度もする。
 と言っても、浴室の扉を開けてから部屋の扉を閉めるまでただただ、下を見てやり過ごすだけなのだが。
 すぅ、と深く息を吸い込んで、また深く吐き出し、心を落ち着かせるように努めた。
 なるべく心を穏やかにして挑んだ方が成功率は高いだろう。

 ドア越しに耳を澄ませてジェイドとエリゼリーテが、直視できないようないかがわしいことをしていないか確認したが、そんな気配もなく、念のためではあるが、扉のノブを回し少し開けてみるが、あのあられもないエリゼリーテの悩ましい声が聞こえてもこない。
 恐らくイリアが危惧していたような事態には持ち込んではいなかったらしく、安堵でいつの間にか入っていた肩の力が抜けてしまった。
 さらに扉を開けて中を伺うと、見える範囲には誰もいないし、いるかと思ったベッドの上にも、人影すら見当たらなかった。
 もしかしたら、どっかに出たのだろうか。それならそれで好都合。
 そう希望をもって、思い切って扉を全開にしてみれば、イリアの希望通りの展開になっていたので、逆に拍子抜けをしてしまった。
 その幸運に乗じてこのまま部屋に帰ってしまおうと、ワインで汚れた上着を片手に持って、ジェイドの部屋を足早に後にした。

 ジェイドの部屋の扉を閉めて安堵の一息。
 何事もなく出てこれて本当によかったと思う。あんな事があった後でまたジェイドと対峙できるような気力もなければ、水分不足で体力すらない。ジェイドにこそげ取られた気力も体力も、充分な休養で回復してから、あの性欲の塊の卑怯な罠に立ち向かいたい。いや、そうでなければ自分の今日あった一連の事への動揺と困惑を隠し切る自信がなかった。

(持ち直さなくては・・・)

 少し気持ちが危うくなってきている。
 手で自分の額を小突いて、喝を軽くいれた。


「危なかったわね」
「エリゼリーテっ」

 気配は感じなかったが、いつの間にかイリアのすぐそばにエリゼリーテが、微笑みながら立っていた。
 イリアが安心しすぎて、その存在に気づかなかっただけなのかもしれないが。
 だが、今この時に不意の登場は、心臓に悪い。心臓が痛いくらいにドクドクいっている。

「あの、さっきはありがとうございました。ほんとに・・・本当に助かりました」

 イリアがエリゼリーテにまた会ったら、必ず開口一番に言おうと決めていた言葉だった。
 言葉の通り、あの時ジェイドを強引に止めてくれなかったら、どうなっていたか考えただけでも昏倒ものだ
。  このような言葉だけの感謝じゃ足りないくらいなのだが、今のイリアが出来ることは取り敢えず言葉足らずであれども伝えるということだった。後は金品でも自分が出来ることならなんなり。
 言い方は悪いが、エリゼリーテには弱点を握られてしまったようなものだから、何らかの形でちゃんと口封じはしておかなくてはいけない。
 それをどんな形にするかは、お風呂で煮えたぎってしまった今のイリアの頭では、なかなか考えつかないのが嘆かわしいところだが。

「大丈夫ですよ。ちゃんとお礼は明日していただきますから」
「お金は今手持ちが少なくて満足のいくような金額は払えないと思います。分割で構わないなら・・・」

 お礼はちゃんとする、そう告げてこの場は収めるはずだった。
 だが、このイリアの一言でエリゼリーテの眉は釣り上がり、二人を取り巻く空気が剣呑なものになる。

「失礼です」

 不快感を隠すこともなく、直球で己の気持ちを言い放つエリゼリーテに驚きながら、それ以上にこんな場で機嫌を損ねてしまったことに、イリアは焦りを覚えた。
何 がいけなかったのだろうか、心の中で頭を傾げる。何も気を損ねることはあの言葉からは想像つかなかった。

「私が欲しいものはそんな陳腐なものではありません」
「・・・陳腐って」

 お金が、陳腐?
 そんな事を言う人間に会うのはイリアにとっては初めてのことで、不可解な物言いだった。
 お金は大事だ。そう昔から両親や兄から教わってきたし、何よりそのお金を手に入れることに奔走する姿を近くで見てきているのだ。

「貴方様のその重大な秘密は、そんなものに替えられるものではありませんもの。私が望むのはただ一つ。先程も言いましたように、貴方様が男の格好をする事になった理由と経緯が知りたいのです」

 だが、自分の目の前で微笑むエリゼリーテにとっては、お金の価値などはイリアの話以上のものではないと断言するのだ。
 価値観の違いと言ってしまえばそれまでだが、イリアに衝撃を与えたのは事実だった。
 この世の共通の物差しであるお金は、ある人にとっては同じ尺度を持たない。エリゼリーテがそうであるように。
 家を出て自分の世界は変わった。変わろうと努力もしたし、変わらざるを得ない時もあった。
 でも、ふとした事で感じてしまう。
 自分の根本は何をしても変われないのではないのかと。
 途端に、自分のさっきの台詞が恥ずかしくなり、やはり自分の中に脈々と流れる血筋を感じずにはいられず、両親や兄の下卑た顔を思い出して、腹の中に澱を産んだ。

「・・・申し訳ない」

 力弱くイリアが謝罪すると、エリゼリーテは静かに微笑んだ。

「これに私のお店への地図が書いてあります。明日は何時頃来られますか?」

 目の前に出されたのは、小さな紙きれだった。
 手にとって見ると、思った以上に詳細な地図が描かれていて、エリゼリーテの細やかな気遣いが見て取れる。
 エリゼリーテの店は「ヴィル・モルワーノ」というらしい。どういう意味かはイリアには分からなかったが、とりあえずこの地図を見る限り色街からだいぶ離れたところに店を構えているので、娼館ではないのだろう。
 ジェイドと毎度のように睦み合っているし、着ているものも露出の多い煽情的なものなのでてっきり娼婦かとも思っていたのだが、その考えは否定したほうがよさそうだ。

「勝手を言って申し訳ないのですが、私のこの職に交代要員がおりません。王子がご就寝になられてからなら時間が作れるんですが・・・」
「そうですわよね。こちらこそ我儘言って申し訳ありません。こちらとしては夜遅くとも構いませんわ」

 申し訳ないがその言葉に甘えさせてもらうことにした。
 イリアの仕事は王子が就寝するまでで、夜は他に警護兵が寝室の入り口に立つだけになっているので、動くなら夜しかイリアにはなかった。何かと不便ではあるものの、人出がないのだからそこは仕方がない。

「では、明日」
「お待ちしております」

 お辞儀をしてエリゼリーテに別れを告げると、彼女も恭しく礼を返してくれた。

 道すがら、そういえばあの王子を野放しにしておくのはまずいとようやく気が付いて、イリアはジェイドを探すべく城の中を走り回った。



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