TAO Vol.6




「あんっ・・・ジェイド・・・」

 どんなことが待っているも何も、昨日と変わらない風景が待っていただけだった。


(へ、平常心平常心。頑張れ俺)

 何度も繰り返す深呼吸。何度も繰り返しすぎて過呼吸になってしまいそうなほどに。
 いっそこのまま過呼吸でぶっ倒れてしまわないだろうか。そうすればこの気まずい雰囲気も居場所の無い感じも意識とともにふっとんでしまうのに。そしてこの迷惑なほどの女の喘ぎ声も聞こえなくなってしまう。
 それより何よりこの扉をジェイドの許しのままに開けてしまったのがそもそもの失敗の原因であり、イリアを取り巻く後悔の元。
 前回のようにすぐに閉めてしまえばいいものの、ジェイドに先手を打たれてしまったためそれもすることも出来ない。

『そのまま後5分ほど待ってろ』

 それがジェイドがイリアに下した酷な命令だった 。
 俯き、なるべくその悩ましい光景が目に入らないようにしているが、人間の好奇心というのはなんとも悲しいもの。怖いもの見たさ、とでも言うのだろうか。駄目だと思いつつもチラリと目を向けてしまう。それを何度も繰り返しては赤面し俯き、また思い返したかのように上目で見る。そうするとふとジェイドと目が合った。初めて会ったときのような既視感。
 また囚われるような錯覚に陥るが、それでも引き離さないような強き視線をジェイドが絶えず寄せる。また女を膝の上に乗せてその肩越しにイリアを見るので女との戯れから唯気を逸らしただけなのか、それとも本気でイリアを。

 そうだ、この喘ぎ声や光景だけはない。
 このジェイドの不可解な視線がイリアを居心地悪くさせる。

 ふっと 息を瞬間吸い込んで、目を逸らしたら肩の力が抜けた。



□□□


「もういいそうよ」

 艶のある女性の声で我に返った。
 振り返ればこの間とはまた違った、黒髪の似合う婀娜な女性がしゃがみこんで情事を一切のことから遮断していたイリアに、微笑みながらそれを伝えてきたのだ。
 一体何がいいものなのか、はて、と考え込むと女性の肩越しにジェイドが横たわりながらこちらを見て笑顔を向けていたのではた、と気が付いて動揺してしまった。
 よく見れば目の前の女性もいつの間にか露出は多いが服を着込んでおり、情事が終わったことを暗に指している。 あれから5分しか経っていないのだろうか。妙にずれた考えを起こした。
 きっと待っている時がさながら水中で息を止めて我慢しているような感じがして、時間の感覚が異様に長く感じてしまったからだろう。人間の不思議・・・
 そんなことを神妙な顔で考え込んでいると、突如目の前の女性が左頬にキスを落としてきたものだから、失礼にも「ギャっ」と大声を張り上げてしまった。女性はその奇声に驚いてイリアの頬から口を離して固まってしまったが、その後にぃ、と笑って「可愛らしいこと」と今一度頬に口を寄せてくる。

「からかうな」

 赤面して動揺しまくるイリアで遊ぶ女性に苦笑いしながらもそうジェイドが言うと、女性は「残念」とさも本当に残念そうな顔で離れて行ってしまった。イリアはその一連の流れをただ呆然の見守るのみ。女性が離れて行った後もただただ口付けされた頬を手で押さえて呆然とすることしか出来なかった。

「おい!いつまで固まってるっ!」
「は、はいっ!!!」

 固まるイリアを諫めるように張り上げたジェイドの声に、兵隊の性か立ち上がり背筋を伸ばして敬礼してしまい、そのイリアの強張った顔を見たジェイドが極まったかのように口を歪め、遂には噴出して爆笑する。何故笑われているのか分からないイリアは、ジェイドを呆気に取られながらその姿を眺めていたが、だんだんと自分が馬鹿にされていると分かり「王子っ」と怒鳴りはすれど、ジェイドにやめる気配はなく、輪をかけて声は大きくなった。

(この色狂い王子色狂い王子色狂い王子・・・)

 ブツブツブツブツとジェイドの部屋一体に広がる笑い声に紛れて悪態をつきまくるが、色狂いなど常万人から言われていることなのでいまいち悪態をつくにしてもしっくりとこない。笑い声に負けて何も言い返せ なくなっているような感じがして益々腹がたつ。更に腹が捩れると言わんばかりに笑い声の声量が増した。
 やっぱりあの時この部屋を出て行くかそのままぶっ倒れておけばよかった、などの後悔をしてしまっても仕方がないと思うのにどうしても思ってしまう。

 一通り笑って気が済んだのか、それでも腹を抱えながらジェイドは徐にベッドから立ち上がった。
 一応、本当に一応に身体にはバスローブを軽く羽織っているが、前を緩く結んでいるために肌の露出は必要以上に多く、そこから要らぬフェロモンを垂れ流している。ほどよく筋肉のついた胸板に、スラリと伸びた太ももに脚。嘆息が漏れてしまうほどに造形品のようなその肢体の持ち主が、気だるそうにその漆黒の前髪を手でかき上げれば女は一瞬で昇 天できてしまうだろう。果たしていったい何人がこの餌食になったことやら。
 何時見ても厭味なくらい整ってらっしゃる方だ、とイリアはついつい惚けてしまう。
 そうこうしているうちにジェイドは動かないイリアの脇をさっと通りぬけ、そのままバスルームへと向かって行った。イリアとすれ違う時にしっかりと横目で笑うことを忘れずに。

「風呂に入る。汗をかいた」

 ジェイドが言葉を発したことで惚けていたイリアの意識が一瞬で戻り、バスルームに入っていってしまうジェイドの背中によくよく意味を咀嚼せずに返事を返す。
 風呂、ああそうか、風呂か、とようやくジェイドが言ったことを理解するのは約5秒後。その汗の意味を今さら問うまでもないが、だが先ほどの女との戯れの残像が頭をちらつき、何ともない「風呂」という言葉にも過剰反応をして顔を赤らめてしまう。

 ―――こいつは随分と初心なことだ

 ジェイドの小馬鹿にした声が甦ってくる。
 あの時は怒鳴り返してしまったが、こんなのでは今度は言い返すことは出来まい。すぐに赤面する自分はやはりジェイドが言うようにこの年にしては初心なことには違いない。
 こんなことでやっていけるのだろうか。
 思わず先の不安に溜息が出る。

「あぁ、それと」
「ううぇ?!」

 バスルームからヒョッコリとジェイドが顔を出した。
 風呂の途中だったのか、髪が濡れ、先ほどまで纏っていたバスローブも着けずに顔だけをこちらへ覗かせている。
 王子ともあろう方がなんというはしたない格好で、と何時もなら出るこんな言葉も驚きの余り出てはこなかった。

「そこ、片付けておいてくれ」
「え?」

 そこ、とジェイドが指した先に 視線を移した。

 そこ、と言われた先。
 その先にあるのは・・・

「ベ、ベッド・・・ですか?」

 ありえないと思った。
 どうか自分のこの確認の言葉に否と答えてくれと心から願った。

 だってつい先ほどまでこのベッドで・・・

「じょ、冗談ですよね?」

 もちろんそうだろう。
 そうであってくれ。
 むしろそうであれ。

 ありったけの願いを込めて引き攣った笑顔でジェイドへ確認する。

「まさか。よろしくな」
「ちょ!ちょっと待ってくださいっ!!」

 あまりに呆気なく肯定するジェイドの言葉に焦ってバスルームに戻ろうとするジェイドを捕まえて必死に留める。
 冗談じゃない。何故自分がこんなことを。

「こんなの侍女にやらせてくださいよ!私の仕事はあくまでも王子の護衛であって身の回りのことは!」
「あぁ、お前知らなかったのか。これもお前の仕事だ」

 冗談なのか真面目に言っているのか区別のつかない顔でイリアに言った言葉にイリアは絶句する。
 まさか、そんなはずはない。
 近衛兵といえど侍女の真似事などやらないはずだし、そんなこと聞いたこともない。

(冗談なのか?また遊ばれているのか?!)

 訳がわからず目を白黒させる。
 ニヤリ、と悪戯を思いついたかのような子供っぽい顔でジェイドは笑う。

「俺に侍女はいない。今まで俺についてた侍女は全て俺が手を出したからな。だから城の連中もおいそれと俺の周りに女を置けないって事で俺付きの近衛兵に身の回りの世話も兼任させているんだが。ザイードに聞かなかったか?」

 聞いているわけがない。
 警護の話しかザイードの口から出てこなかった。

「・・・私をからかっているんですか?」

 出てきたのは空笑い。

「俺も毎回お前をからかうほど暇じゃないな」

 そしてこの言葉に涙が出そうになった。

「じゃ、よろしくな」

 そう言ってバスルームに消えていくその背中を引っ掴んで意地でも冗談だと言わせたかった。
 だが、呆然として体が動かない。

(嘘だ・・・)

 身の回りの・・・世話?
 アレの、世話?
 チラリとベッドの上のシーツを見る。くしゃくしゃになって今まで何をいたしていたのか一目で分かるような生々しさがそのシーツから滲み出ていて、湿っている上に考えたく もないものが所々に付いている。

 ・・・これの世話?

 まさか女の世話までとか?
 考えただけでも身の毛がよだつ。
 情事の場面を見せられた上にその後片付けまで自分がしなくてはいけないという事実に本気で泣きたくなった。

 そして今、このベッドを前にして立ち尽くすこの置かれている状況に現実感がない。

「本当に俺がするの?」

 呆然としながら溢した言葉に答えてくれる人は誰もいなかった。


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